当ブログの発刊について、被災地の復興の足枷となりかねない場合が多いため、橋・探訪を一時休ませて頂きます。
一日も早い復興を祈念いたします。 「字っ茶練」
周防大橋は、周防灘域内(北は山口県南岸、東は屋代島、西は関門海峡、南は大分県の姫島と山口県の祝島を結ぶ境界線に接する)の山口湾に、[PCーT桁橋+鋼3径間連続斜長橋+PCーT桁橋]にて平成4年に竣工した。
橋長1,040m・主塔高71mを誇る周防大橋は、県内では関門橋に次ぐ長大橋で、主塔から張り降ろしたケーブルは山口湾に羽を広げ、まさに飛び立とうとする白鷺の姿を想像させる。
親柱(写真右下)のデザインは一般公募して選定されたもので、周防灘の波・風・雲そして地域特産のエビをイメージしており白御影石を加工してできている。(現地案内板より一部抜粋)
新八海橋(写真上)は、鋼桁橋で昭和47年に竣工している。
旧八海橋(写真下)は、RCーT桁橋で新橋の下流側に架橋されており、利用は出来ないものの今も残されている。
八海事件は、昭和26年に当地で起きた。瓦製造業を営む老夫婦が惨殺され、現金を奪われたのである。警察は、盗んだお金で遊郭に入り浸っていた吉岡晃を逮捕。しかし、現場状況から複数犯と決めつけ、仲間の名前を吐くよう吉岡晃を執拗に責めたてた。ついに阿東修平さんを主犯とする他四
名の名前を挙げることになる。こうして阿東修平さんたちの冤罪との闘いが始まった。17年9ヶ月の間、最高裁判所に三度も行き、有罪・無罪を行き来した。ついに裁判史上希にみる三度目の判決が言い渡された。「判決主文 ”無罪”」。
阿東さんたちの無実を世に訴えるため、正木弁護士の著書「裁判官」を映画化した「真昼の暗黒・今井正監督」である。
この映画によって、八海事件の真相が世に知れ、阿東さんたちの支援の輪が大きく広がった。
映画「真昼の暗黒」のなかに、 一人の被告の家族がこの橋(旧八海橋・映画では橋名を別名にしている。)を渡るシーンがある。叔父は世間体を考え被告の母親に、「裁判の事よりまず被害者に線香の一本でも持って悔やみに行くべきだろう」と言われ、線香とお供え物をもって謝りに行こうとするシーンである。「母親は、橋の途中まで来ると泣き崩れ、線香とお供え物を川に投げ捨てるのである。”やってもいないものを、どうして謝りになんか”」。衝撃的なシーンである。
旧八海橋が今でも取り壊すことなく残されている(一部)理由がわかるような気がする。
「二度と冤罪事件を起こさぬよう、八海事件をこの橋に託して後世に伝えよう」
宝来橋は、銀山街道(大森[岩見銀山]~尾道)の玄関口であるこの地に昭和10年にRC(鉄筋コンクリート)橋(旧橋;左小写真)、昭和54年にPC(プレストレストコンクリート)橋(新橋;左大写真)にて架設されている。
岩見銀山は、博多の大商人・神屋寿貞(博多三傑)が本格的に開発し、以後、大内氏と尼子氏及び毛利氏による銀山の争奪戦が繰り広げられた。
時を経て岩見銀山は、豊臣秀吉・徳川家康にまで受け継がれた。
家康に命じられた大久保長安は、銀山開発を急速に進め、家康に莫大な
銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。
当初、産出した銀は沖泊等から船で搬出されていたが、冬の日本海は航行に支障をきたすほどの季節風が強いため大久保長安は、銀山から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海に至る陸路の銀山街道を整備した。
銀山街道の通過する美郷町の入口 [玄関口] に架設された宝来橋は、この地に富をもたらし福を呼び込む願いを込めて、いつしかこう呼ばれるようになった。
都賀大橋は、橋長175mの2径間単純アーチ橋で1978年に竣工した。
「都賀」は島根県岩見国村邑智郡都賀郷のルーツを持つ清和天皇の子孫で源姓を賜った清和源氏の一族で小笠原氏族。他、都賀使主など子孫にも見られる。
小笠原長親が弘安の役の軍功により岩見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだことに始まる。南北朝時代の当主、小笠原長胤は武家方に従って活動、戦国時代に入ると岩見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、戦国時代・当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。(ウイキペデイア「岩見小笠原氏」より引用)
小笠原氏族の都賀がこの周辺の地名として残されているのであろう。