涙 橋
・鹿児島県鹿児島市 ・旧谷山街道(市電涙橋停留所) ・新川
「涙橋」は、市電・谷山線(涙橋停留所)と、すぐ隣りを並行する旧谷山街道(新川の交点)に架かっている。江戸時代には 涙橋の更に南にあった刑場へと向かう罪人と、その家族がこの橋のたもとで最後の別れをした場所とある。(現地案内板)
罪人とはいえ家族にとっては、二度と相まみえることのない別れである。昔のことでそれが理不尽な場合、なおさら 涙・涙であろう。 こういうことがあっても不思議ではない・・・「涙橋」にまつわる物語。
"薩摩藩宝暦治水事件”
江戸中期(1754~1755)、幕命による御普請のお手伝いとして木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水工事が命じられた。薩摩藩は家老平田靭負(ゆきえ)を総奉行に藩士以下郷士含めて約1000人を派遣した。幕府の厳しい監督のもと、油島締切堤や、おぐれ川洗堰の難工事のため、工費は15万両の予想をはるかに上回り、40万両に及んだ。又、幕府のいやがらせも相当なもので、出来た堤の破壊や重労働にもかかわらず一汁一菜、簑・草履等安価に売らないよう地元農民に指示したりした。幕府の思惑どうり大名の力を削ぐためのもので薩摩藩では困難をきわめ、幕府への抗議のための割腹自殺61名、また薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な重労働のために病死32名・計93名もの犠牲者を出した。工事完成引き渡し後、総奉行・家老平田靭負は国許に無断で大阪商人に約22万両の借入したり(後の「黒糖地獄事件」へと発展)、多大の犠牲者を出した責任をとり、割腹自殺した。
辞世の句は、 ”住み馴れし 里も今更 名残にて 立ちぞ わずらう 美濃の大牧”
(ウイキペデイアより引用)
藩士に数人の割腹自殺者が出た時期、駆り出された藩士・郷士のあいだに再び不満がくすぶり始めた。・・・というのも当初から薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまの嫌がらせに「一戦交えるべし」と強硬論が続出していた。藩取り潰しと同義語と解釈している若手藩士・郷士のあいだで熟慮・決断した。「一戦交・・・」 強硬論を抑えこの普請の総奉行である家老には内密に、国許に報告し再考を願おうとした。使者には郷士の二人が選ばれ、美濃を旅立った。・・・が敢えなく出水郷の関所で捕縛された。平穏な時は百姓、いざ戦になると槍を片手に駆けつけるのが郷士であるが故に普請現場を離脱した者として扱われた。離脱理由は決して口外出来ない。このことがほんの少しでも漏れると、いつ幕府方の耳に入るとも限らない。このようにしてこの2名は、刑場へと送られることとなった。 女房殿や子達は、郷士といえども武士・恥じ入る気持ちを抑えながら「涙橋」で別れを惜しんだ。
数年後、騒ぎが収まった頃、ある藩士がことの顛末を女房・子達に告げ真実(まこと)を知ることとなった。以来、「涙橋」へ出向いては涙していたという。
鹿児島県と岐阜県はこのことが縁で今でも交流が続いている。
明治10年西南戦争で最後の決戦の場でもある。薩軍兵士(枕崎出身90名)の慰霊碑が建立されている。
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おっちゃん (月曜日, 04 9月 2017 08:32)
ウイキペデイアよりは、全項を指す?
字っ茶1 (水曜日, 18 10月 2017 16:00)
おっちゃんさん へ
(ウイキペデイアより引用)までです。それ以降は創作物語です。