当ブログの発刊について、被災地の復興の足枷となりかねない場合が多いため、橋・探訪を一時休ませて頂きます。
一日も早い復興を祈念いたします。 「字っ茶練」
周防大橋は、周防灘域内(北は山口県南岸、東は屋代島、西は関門海峡、南は大分県の姫島と山口県の祝島を結ぶ境界線に接する)の山口湾に、[PCーT桁橋+鋼3径間連続斜長橋+PCーT桁橋]にて平成4年に竣工した。
橋長1,040m・主塔高71mを誇る周防大橋は、県内では関門橋に次ぐ長大橋で、主塔から張り降ろしたケーブルは山口湾に羽を広げ、まさに飛び立とうとする白鷺の姿を想像させる。
親柱(写真右下)のデザインは一般公募して選定されたもので、周防灘の波・風・雲そして地域特産のエビをイメージしており白御影石を加工してできている。(現地案内板より一部抜粋)
宝来橋は、銀山街道(大森[岩見銀山]~尾道)の玄関口であるこの地に昭和10年にRC(鉄筋コンクリート)橋(旧橋;左小写真)、昭和54年にPC(プレストレストコンクリート)橋(新橋;左大写真)にて架設されている。
岩見銀山は、博多の大商人・神屋寿貞(博多三傑)が本格的に開発し、以後、大内氏と尼子氏及び毛利氏による銀山の争奪戦が繰り広げられた。
時を経て岩見銀山は、豊臣秀吉・徳川家康にまで受け継がれた。
家康に命じられた大久保長安は、銀山開発を急速に進め、家康に莫大な
都賀大橋は、橋長175mの2径間単純アーチ橋で1978年に竣工した。
「都賀」は島根県岩見国村邑智郡都賀郷のルーツを持つ清和天皇の子孫で源姓を賜った清和源氏の一族で小笠原氏族。他、都賀使主など子孫にも見られる。
小笠原長親が弘安の役の軍功により岩見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだことに始まる。南北朝時代の当主、小笠原長胤は武家方に従って活動、戦国時代に入ると岩見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、戦国時代・当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。(ウイキペデイア「岩見小笠原氏」より引用)
小笠原氏族の都賀がこの周辺の地名として残されているのであろう。
天空の駅(宇都井駅;うづいえき)は、島根県と広島県の県境山中にあり、昭和50年~平成30年までの43年間地域に貢献していた。(現在、廃線と共に廃駅となり封鎖されている。)
高架橋は、鉄筋コンクリート(RC)のラーメン構造体(交点剛結構造)で、プラットホームまでの地上高は20m(日本一)あり、ホームに上がるには116段の階段塔(写真上・中央)を上らねば成らない。天空の駅と呼ばれる所以である。
天空の駅高架橋にまつわる物語りとして、服部藤馬翁の話があります。
明治9年宇都井に生まれ、医者として地域に貢献する傍ら、昭和21年に没するまで地区の財政安定と三江線(宇都井
南端から西端に向かって御笠川が流れ、川の東側に国道3号と都市高速太宰府線(写真上)が通っている。
金隈大橋は、御笠川を跨ぐ市道にPC橋で架設された。
地域内からは弥生時代の遺跡である金隈遺跡が発見されている。
三日月橋は、JR香椎駅から東方2kmの所にある長谷ダムの三日月湖内に平成4年に竣工したアーチ橋である。
[長谷ダム記念公園]として整備されたこの一帯は、市街地でありながら自然豊かな森(三日月山・立花山)と湖
(三日月湖)からなる。三日月山・立花山の登山口でもある。
三日月は、日没後の西の空にかかる鎌のような細い月をいう。月は一般に新月を含む前後3日間は見えず、旧暦3日に初めて見えることが多い。特に陰暦8月3日の月についていう。
三日月橋の名は、三日月山より拝命したものと思われるが、三日月山の名の由来は、昔この山頂から見た月が3つ見えた(?)ので名付けられた(!?!?!?)という話もチラホラ。
安満橋は、安満岳より流下する安満川に1991年に架設されたPC橋である。
安満岳は、平戸市の平戸島北西部にある標高530mの最高峰である。
安満岳は古代より平戸地域における山岳信仰の中心として崇敬をうけた。山頂近くには718年加賀国より分霊されたとされる白山神社が鎮座するほか、明治初期に廃寺となるまで在地仏教勢力の中心的存在としてキリスト教布教をはかる宣教師などと対抗する等した西禅寺があった。
また、江戸時代に入りキリスト教が日本国内で禁教政策により地下潜伏(隠れキリシタン)する中、安満岳の山頂にある石塔(「薩摩塔」)と自然石による石祠が「安満岳の奥の院様」と呼ばれて隠れキリシタンの信仰対象とされた。(ウイキペデイア:安満岳より抜粋)
安らぎ満たされる岳(やま)として、名称からも当時の「隠れキリシタン」の苦悩が忍ばれる。
1595年豊臣秀吉の家臣・寺沢広隆がこの地に封じられ、満島山に本格的な築城(唐津城=舞鶴城)を行った。築城に際し地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。
その松浦川の唐津湾口に架かるのが舞鶴橋である。
松浦大橋は、PC(プレストレストコンクリート)橋で、昭和63年9月に竣工している。
ここ旧松浦郡は、肥前国に所属していたが1871年(明治4年)廃藩置県により長崎県所属となり長崎県北部、北松浦半島に位置する松浦市。松浦党発祥の地である。
松浦党とは、北松浦半島を中心として海を舞台に活躍した武士団で、嵯峨天皇の子孫、源久(ひさし)が始祖といわれています。久は1069年にこの地方を治めるため宇野御
厨検校(うのみくりやけんぎょう)として、現在の松浦市今福町に赴き、梶谷城を築いて「松浦」の姓を名乗り、以後、久の子孫がこの地方に広がっていきました。松浦党の水軍はとみに強く、源平合戦にも平家方の主力として参戦しました。また元軍が北部九州に攻め寄せた「文永の役」と「弘安の役」では伊万里湾内に集結した元軍に奇襲戦法で戦いました。松浦水軍は村上水軍と共に全国にその名を馳せました。(現地、案内板より転載)
伊万里津大橋は、伊万里川の最下流に位置し、橋名に表された津は港と同義語で海の入り口に当たります。
伊万里津は、古伊万里焼の積み出し港で、ヨーロッパまで渡り王侯貴族たちに愛好された。当時プロシアのアウグスト大王は大壺一対と龍騎兵一個連帯を交換したと伝えられている。こうした記憶を留めるために伊万里津大橋
は、昭和61年に整備・架橋された。
橋の上流側には「染錦四季草花文大壺」、下流側には「染錦花見風俗絵大壺」(写真右上)の大作が展示されている。
生月大橋は、平戸島と生月島を隔てる辰の瀬戸を跨ぐ、橋長960mのトラス部と前後の高架橋部370m、桁下高31mの構成で1991年に有料道路の一部として架橋された(現在は無料)。
遣唐使の時代に中国から日本へ帰国する旅人がこの島が見えると、無事に帰って来られたと「ホッと息をついた」とされ、生月の由来とされている。
日本からの遣唐使は、630年の犬神御田鍬の派遣に始まり、894年の菅原道真の建議による中止にいたるまで、十数回に渡って唐に渡航した。8世紀には遣唐使がほぼ20年に一度の割合で派遣され、唐の進んだ政治・文化・文物を伝える役割を果たした。遣唐使がもたらした文物は、古代日本の国家体制や文化の形成に大きな影響を与えた。
”(世界の歴史マップ・遣唐使)より抜粋”
平戸大橋は、平戸島と本土部を隔てる平戸瀬戸に架かる全長665m・全幅11m・桁下高30mの吊り橋である。
1973年に起工式が行われ、1977年に竣工している。1996年~2010年までは有料道路として運用されていたが、現在は無料開放されている。
2007年には、貨物船のクレーン先端が平戸大橋に衝突し、橋が破損し、また並行する送電線が切断されたため、平戸市と周辺の約3万世帯が停電する事故が発生した。
歴史的大舞台となる平戸
・1191年、栄西により日本で初めて禅宗を伝え、又これも日本初の茶畑を作った。
・1550年、フランシスコザビエルがキリスト教の布教を始める。
・1609年、オランダが商館を設置。
・1613年、イギリスが商館を設置。
・1615年、イギリス商館長リチャードコックス、日本で初
めてサツマイモを栽培。
・1620年、三浦按針、平戸で病没。
・1623年、イギリス商館閉鎖。
・1641年、オランダ商館が長崎・出島へ移転。
・1871年、廃藩置県により平戸藩が平戸県(後の長崎県)
となる。
筒井橋は、御笠川流域の筒井に架橋されている。
筒井には、地名発祥の由来となる花崗岩の石枠でできた井戸(写真上)がありました。(現在は飲み水としては使用されてい
ませんが筒井地区の協同井戸跡として大切に保存されています)。そばには井戸を見守るかのように祀られた薬師如来の祠もあります。
この井戸について貝原益軒(1630~1714年)の「筑前国続風土記」、御笠郡下の筒井村の項に「雑餉隈(ざっしょのくま)の南の方にある近辺の村です。村の中に筒井というきれいな水が地面から湧き出ている井戸があります。その井戸は木の筒で井戸枠が作られています。それで村の名も筒井というのです。井戸の水は澄んでいて冷たく、常に水が下から井戸枠の上へ湧き上がっています。ただ冬至の夜だけは、湧き上がってこないということです。」とあります。
第2次世界大戦(1939~1945年)後しばらくの間は、夏は涼しく子供達もこの井戸の廻りで、小魚をすくったり、石枠に生えている苔を集めたりして遊び、水汲みは直接バケツ等をいれて使用していたそうです。
エリソン ジョージ・オニズカは、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。
父は福岡県浮波市、母は広島県にルーツを持つ、日系2世である。1986年チャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。
かって、この場所には「田島橋」と呼ばれる橋が架かっていましたが、1995年、井延川の氾濫で流されてしまいました。橋の再建にあたり、「地元にゆかりあるエリソン・オニズカの名前を橋に入れては」という意見が出され、現在のエリソン・オニズカ橋が竣工しました。
天神橋は、天満橋(当ブログ4/4日号・写真上右端)と同路線上の隣り合う橋梁で昭和11年に竣工している。
植木地方の古名を「崗」といい、神を「オカノオカミ」と称し、古代から
豊穣を祈る水の神(遠賀川の主神)、田の神として祀られ、御山神社と呼ばれていました。1716年天満宮に奉還され、天神様が主神となり、オカノオカミは䄅属神になったと伝えられています。
天満橋は、直方(のうがた)~宗像(むなかた)線に位置する。植木(当地名)が江戸時代の赤間街道・宿駅にあたり、天満橋は植木天満宮の桟道上を横断している。(写真左)
天満宮では、江戸時代の参勤交代に因み、大名行列を再現するお祭りが4年に1度開催され、植木天満宮の御神幸祭に奉納している。
大名行列は、やっこ姿の小中学生48人と大人18人が中心にいる足軽頭の合図で、左右斜め前に足を大きく踏みだしながら毛槍を振る所作で植木の町中をねり歩きます。
松浦大堰(橋)は、鋼橋で国土交通省管理の潮止橋として出来た橋長319mの橋梁である。旧松浦大橋は、現橋の200m程下流側にあった。明治29年竣工の木橋、及び昭和14年竣工のコンクリート(RC)橋、昭和49年5月に現橋・松浦大橋が竣工している。
松浦郡は、肥前国に所属していたが1871年(明治4年)廃藩置県により長崎県所属となり長崎県北部、北松浦半島に位置する松浦市。松浦党発祥の地である。
律令制下では、肥前国・松浦郡の区域とされた。平安時代後期、源氏の流れを汲む源久が松浦郡宇野御厨の検校となり、現在の梶谷に住み松浦久と名乗り、太夫判官と称して松浦郡・彼杵郡の一部及び壱岐郡を治めた。この松浦久のもとで松浦党と呼ばれる武士団が結成された。松浦党は松浦水軍として活躍し、名を馳せた。
松浦川は、佐賀県伊万里市(旧肥前国・佐賀藩)を源流に唐津市の中心部を通り唐津湾へと流れている。従って河川名は、そのまま松浦川となり、「橋の名は。」・松浦大橋と呼ばれている。
名護屋大橋は、名護屋浦(鎮西町名護屋~呼子町殿浦)にPC3径間ラーメン箱桁橋・橋長258mが1967年に架設された。
周辺一帯は、名護屋城跡で全国から参集した大名の陣屋が130以上も建てられていたという広域な遺跡群がある。巨大都市備前名護屋城は、朝鮮出兵時に築かれた天下人豊臣秀吉の居城であった。
秀吉は、 天正18年に織田信長も夢見た天下統一を成し遂げます。
「これで平和な世の中が訪れる」と思われたのもつかの間、秀吉は国内だけでは満足せず、7年にも及ぶ大陸への「文禄・慶長の役」を起こそうと計画します。これを実行するため拠点(居城)が必要と考えた秀吉は、新たな城を備前につくりました。これが名護屋城です。
名護屋城を築上しようと考えた理由の一つが、秀吉の出身地・愛知県の名古屋と同じ地名であったためと考えられる。
「橋の名は」、そのまま地名がつけられたものである。
呼子大橋の下には、男島・女島が並ぶ弁天島があり近年、女島までをアーチ橋で繋いだ連絡橋が「弁天島遊歩道」です。
その昔、太閤秀吉が朝鮮出兵の折り、船遊びをした場所として知られている名所です。以前、満潮時には渡れなかったこの弁天島へ遊歩道の完成でいつでも渡れるようになり、磯遊び・魚釣り・潮干狩り等も楽しめます。またこの弁天島には、弁財天を祀った弁天神社(写真上)や石像の観音菩薩等があり、参拝等されるのもいいでしょう。
(現地、案内板より引用)
呼子大橋は、玄海灘を跨ぐ市道で唐津市の離島・加部島と本土を結ぶ架橋として1989年に完成した。
加部島住民の交通事情の改善及び本土からの水道パイプライン併設による農業用水の安定供給の向上を目的として建設された。
橋のたもとを海の方へ下りて行くと、観潮時には弁天島の岩脈群が、満潮時んは魚影群が見られる。
又、PC(プレストレストコンクリート)斜張橋を背に真っ赤な夕日(写真下)を浴びた想い出の写真。あなたの「橋物語」が展開して行きます。
玉島橋は、1964年に玉島川の河口に架設された。
玉島川は、佐賀県唐津市東部を流れる2級河川である。
肥前国風土記には神巧皇后が三韓征伐を前に鮎釣りを行い吉凶を占った伝説がある。その後大友旅人を初めとする多くの歌人がこの地を訪れており、万葉集には玉島川や鮎釣り又、唐津に縁のある松浦佐用姫(まつらさようひめ)伝説に関連する数多くの歌が残されている。
松浦佐用姫(写真左下=鏡山にある佐用姫像)は、唐津
市巌木町にいた豪族の娘で弁財天のモデルとされ、全国にある同様の伝説の本家である。
西暦537年、新羅(古代の朝鮮半島中部(東側)にあった国家)に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦(おおともさてひこ:古墳時代後期の豪族)の雄壮さに惹かれ、熱烈な恋いに落ちた。が、ついに出征のため分かれる日が訪れた。
佐用姫は鏡山の頂上から領布(ひれ)を振り、涙しながら沖行く舟を見送っていたが、ついには別離に耐えられなくなって舟を追い、玄海灘の荒波が打ち寄せる呼子・加部島まで後追いしたがこの先はいかんともしがたい。加部島で7日7晩泣きはらし全てが涙に変わった時、ついには石になってしまったという。
加部島にある田島神社の境内社・佐輿姫神社は佐用姫であったという石を祀っている。
(一部、ウキペデイア・松浦佐用姫より引用)
曽木の滝から鬱蒼とした山中(県道404号・鶴田ダム~伊佐)をダムに向かって走ると途中の鷽越谷に架かるランガー橋が「鷽越橋」である。昭和37年8月に竣工している。
鷽(ウソ、学名Pyrrhula
pyrrhula)はスズメ科アトリ科ウソ属に分類される鳥属の一種。和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」からきており、ヒーホーと口笛を発することから名付けられた。その細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「ウソ姫」と呼ばれることもあった。 =ウキペデイア [ウソ]より抜粋=
鷽越谷一帯は、山全体が鬱蒼として「鷽」が越冬するのに適していたらしい。毎年、越冬時期になると「鷽」独特のヒ ーホーという鳴き声で満たされていたであろう。
「鷽」という字が旧字「學」に似ていることから、太宰府天満宮や亀戸天神社では「天神様の使い」とされ、「鷽」を模した木彫りの人形「木鷽」が土産の定番となっている。
この「木鷽」を使った鷽替え神事も菅原道真を祀った大きな神社の定番である。
宗像市冨士原銭垣地内に祀られる「愛宕神社」より北西方向へ約500m、県道29号と市道が交差し、釣り川を跨ぐ1スパンのプレストレストコンクリート(PC)橋が「太郎坊橋」である。
この冨士原愛宕神社は寛政(1789~1801年)年間以前は「太郎坊社」と言われていたことから当橋「橋の名は。」の由来と推察する。
太郎坊社の社名は、山城の国(京都)「愛宕山太郎坊」(大天狗)修験と関わる戦神を本地仏とした事によるものであろう。これにより特に、日支事変の頃からは、この戦神の愛宕神に戦勝祈願をし出征兵士や家族の安全息災を願ってこの橋を渡り、参拝に訪れる人々が多かったであろう。
「郎坊」の名のつく大天狗といえば他に比叡の次郎坊、飯綱の三郎坊があり九州の大天狗といえば英彦山の「豊前坊」がある。又、本社の境内に本橋名を刻んだ旧橋(石橋)の親柱が残されており関係性を示す資料として貴重なものである。
””(正見行脚HPより引用)””
中島橋は、八幡西区木屋瀬~直方市に架かる橋長約400mの橋で平成元年6月に完成している。
小倉を起点とする旧長崎街道(写真下・街道沿いの景観)の2番目の宿場町であった木屋瀬から直方・長崎方面への通行は、この遠賀川を渡る必要があった。初代「中島橋」は大正6年に架設され、本橋の下流川にあったが新橋と入れ替わりに撤去され、今では橋門(写真下)のみが木屋瀬側に保存されている。
初代「中島橋」の築造以前は、たびたび遠賀川の氾濫に見舞われている。
その頃の、橋のない時代の「渡し場」跡が本橋の上流側に見られる。遠賀川とその支流の間の「瀬(中島)」(写真上)に渡り、更に対岸まで渡るという、なるべく危険を避ける方法がとられている。
中島橋の「橋の名」の由来であろう。ただし、この橋名は全国各地に存在しており、その由来は定かではない。
飯塚市八木山と鞍手郡宮田町の境に女郎ヶ原と言う地名がある。この地には、女郎塚と呼ばれる墓がある。
その昔、源平時代の最後の合戦である壇の浦で負けた平家の女官がこの山里に落ち延び、ここに辿りついて仮家の詫び住まい・都に帰れることを祈るうち、病気で亡くなってしまいました。村人達は、その死を哀れんで石塔をたて供養し、その縁でこの地は「女官の上臈」から女郎ヶ原といわれ、墓は女郎塚と呼ばれている。
女郎ヶ原橋は、この地を横ぎる八木山川に架設されたもので、この物語りが永遠に語り継がれるひとつの梯となるよう「橋の名」に願いが込められている。
日本で初めてツバキ油を精製したことに由来する油山を源流として百道浜から博多湾に注ぐ涌井川の中流に位置する。
金桜橋(橋長34m、幅員10m、平成9年完成)は、全国で初めて空き缶を使用して造られた合成床版橋である。構造的に本来、橋桁の中身としてコンクリートや硬質ウレタン等を充填するところに地元小学校(11校)の生徒たちによって集められた14万個の空き缶が封入されている。
橋の右岸側のスペースには巨大な缶(タイムカプセル)のオブジエ(写真下)が設置されて関係した児童や市民の夢が詰まっている。この橋の建設目的は、「自然・環境・資源」との関わりについて未来の主役になる子供たちのエポック・メイキングを期待してのものであろう。
橋の名の由来は、おそらく昔、この涌井川の堤防沿いにあった「鬱金(ウコン)の桜」が、春先に淡い黄金味を帯びた満開の状態を「金の成る木の金桜」として伝承されたと推察する。
近くには、江戸中期に黒田藩の別邸として建造された「友泉亭」がある。昭和56年福岡市池泉回遊式日本庭園として整備された3000坪に及ぶ園内はしばし都心の雑踏を忘れ幽玄静寂な時が流れる。
粥田ノ庄を貫流する犬鳴川は、「慶長」の初め頃は迎野川の本線に流れ出るところで犬鳴川が始まり、鶴田の里~尾勝~南良津川を併合~勝野兵舟~嘉麻川に流れていたようだと語り継がれている。
黒田如水・長政父子は徳川家康から関ヶ原の恩賞により中津十二万石から筑前五十二万石小早川秀明の居城・名嶋城に入城した。慶長六年、「水を治むるもの国を治むる」の例えのとうり「筑前東部の治水事業に着手した」と伝えられている。
当時の測量技術と資材の調達方法については「奥田、萬田、千田、百田、十田、一田」六家の頭領・奥田蔵人鬼秀の末裔たちは、「昼は水盛・夜は提灯をつけて高さと方位を計り出し、築堤には松杭及び竹しがら等、土留めに大量に使われ、石垣は布積で大切なところは石灰と海草のりを目詰めに使った」と奥田家口傳は語り伝えている。
かくして黒田如水・長政父子が起こした犬鳴川の悠久の流れは、往時の大事業の恩恵を受けながら直方市に流れ、粥田ノ庄の治水は今日まで永々と守られている。
旧橋・木橋は西日本大水害(1953年)の時に流失し、現在地に粥田橋として生まれ変わるも、福岡・直方線バイパス道の貫通時(平成12年)にここに再び「粥田橋」の新装・改築となる。 =”現地・石碑(写真左上)文より抜粋”=
月俣神社の参道橋。
院内最大の神橋です。石工棟梁・日野宝作により大正12年(1923年)に建造された。
橋長14m・橋幅2.4m・橋高8mの1連石橋。
鳥居をくぐり、神橋を渡って長い石造り階段(写真左)を昇りきると月俣神社が厳かに鎮座している。